震災から何年経ったでしょうか…。
東日本大震災の津波に耐えた岩手県陸前高田市の『奇跡の一本松』。その凛と立つ姿に、私を含め日本中の人が元気や感動をもらった。それを見て「一生懸命生きていこう」と何人の人たちが思ったのでしょうか…。私は震災直後、当時通っていた東京の高校にいました。そのときの地震は私たちに自然災害恐ろしさを思い知らせ、私は人間の無力さを感じました。そしてその日、テレビ画面を見た私はこの日本国内で起きているとは信じられないような光景を見ることとなります。津波です。何もかもを飲み込み、逃げる暇もなく海に引きずり込んでいく波。私の知っている海は、そこにはありませんでした。同じ日本にいながら、私はテレビ画面を見ることしか出来ません。現実味の無い映像に私は、いや、画面の前にいたほとんどの人間は立ち尽くすことしか出来なかったはずです。
-----そんな津波に耐え生き残った一本の木がありました。それが『奇跡の一本松』です。
その背の高く、横から斧を叩き入れたら折れてしまいそうな松の木は、海が何もかもを飲み込んでしまった後のまっさらな土地に根をはって立っていました。まさに奇跡です。
私は感動しました。
いろんな人が感動しその木を見に訪れました。木が枯れると言われれば、そのたくさんの希望を与えてくれた木を復興のシンボルとして復元し、末永く保存し、大切にしていこうとしました…
しかし、それはエゴ。
エゴなのではないか、そういう意見がたくさんあがります。正直なところ、私もそこに金を使うならもっと身近な復興手当に使った方が良いのではと思います。
エゴって、何なんでしょうかね…難しいですよね。私だってそりゃあ一本松を大切に保管して、震災を知らない子ども達に見せてあげたいですよ…だけれども、いち早く普通の生活に戻すことが今は最優先。
そう。私は、人間が大切なんですよね…結局。
私、人間ですから人間が生きてくれることを最優先に考えてるんです。ま、それも立派なエゴですね。仕様が無いんですよ。そういう風に考えていくと一回死んでしまった一本松よりも、今を生きている人間のためにお金と時間を使いたい。私はそう思っています。
ただ、一本松を残していきたいというのも間違ってないとも思っています。だって一本松は私たちにいろんなものを芽生えさせてくれたんですから。それを実物として残しておきたい。その技術がこの世界にあるのなら、その一本松に施してあげたい。…なんにも間違えじゃないんです。
それこそ、人間の思うこと、皆が皆同じことなんて無いんですから。これが絶対正しい!!って言うのが無い。これもまた難しいですよね。
私は津波の恐ろしさを体験したことはありません。今も何不自由なく普通に生きています。
だからこそ現在も家に戻れていない『人』にいつも通り『だった』生活を送って欲しい。これが私の意見。
復興のシンボルをいつも胸に抱いて生きて欲しい。これが『奇跡の一本松』についての私の自分勝手な意見です。
あくまで私、一個人の意見です。
分かりにくい言い回しをしてしまってすみませんでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿